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【Sawbona! W杯】川淵キャプテンの「夢」-1

2009年7月22日

 日本代表がプロとして本気で世界に挑み始めた92年以降、日本サッカー協会の川淵三郎キャプテン(72)は7人8代の歴代監督を間近で見てきた。各監督の個性的な指導法にもまれ、歓喜と失望を味わいながら、日本はW杯本大会の常連に成長した。徹底管理のトルシエ、自由と責任のジーコ、日本人の特徴を引き出そうとしたオシムの各時代を経て、岡田武史監督(52)が2度目の大舞台に挑む。世界と渡り合える日本人指導者の出現を熱望する川淵キャプテンは、岡田監督に大きな期待を示した。

限界見えたベスト16

 日本代表が明確に世界を意識したのは92年、初の外国人監督としてハンス・オフト氏が就任したときからだ。招聘(しょうへい)したのは当時の日本協会・川淵三郎強化委員長。「ラモス、カズといった本物のプロ意識を持った選手が代表に入ってきた。それなら監督もプロに変わらなきゃいけない」。その10年後、フィリップ・トルシエ監督率いる日本代表は、02年W杯日韓大会で初の決勝トーナメント進出を果たした。しかし、当時Jリーグチェアマンだった川淵キャプテンは厳しい見方をしていた。

 川淵キャプテン(C) トルシエは、有無を言わさず、先進国が発展途上国に教えてやるという態度だった。90分間すべての動きを自分が教えるんだというくらいだった。選手は監督の意向を無視しては代表に選ばれない。奴隷とは言わないが、絶対専制君主だった。いい意味じゃなく、常にピリピリムードだった。

 W杯初勝利、決勝トーナメント進出という結果の裏に限界も見えていた。

 川淵C フラット3の戦い方を徹底すればある程度までは行けると判断していたのであれば、トルシエも評価できる。でも、あれが限界。ロシア戦の時も、トルシエはフラット3を上げろと怒鳴り散らしていたが、宮本(恒靖)たちは下げていた。選手は考えなくてもいいと言われても、ちゃんと考えてやっていた。結果的にはベスト16に残ったけど、あのままで日本のサッカーの成長はあり得ない。臨機応変ということが一番できにくい形だったから。


 ◆川淵三郎(かわぶち・さぶろう)1936年(昭11)12月3日、大阪・高石市生まれ。早大から古河電工に入社し、64年の東京五輪に出場、72年に現役を引退した。古河電工、日本代表監督を歴任。一時サッカーから離れたが、88年にJSL総務主事と日本協会理事に復帰し、プロ化へ手腕を発揮。91年にJリーグ初代チェアマンに就任。02年には日本協会会長となり3期6年務めた。08年7月から同協会名誉会長。現在、日本サッカーミュージアム館長も兼務。


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